最近、東京医科大学を発端に複数の大学の医学部が入学試験において特定の受験生に対し不正に得点を操作していたニュースが大きな問題として取り上げられ、話題となっていますね。
さて、女性受験者や浪人生への差別問題として捉えられることの多いこのニュースですが、私はもう少し引いた視点で、このニュースをより大きな問題の一部として捉えています。
今回は「平等とは何か?」「どうすれば、より『平等』だと言えるのか?」というのを考察してみます。
「平等」の分類
大学入試において、女性受験者・浪人生の点数を意図的に下げるというのは、「不当」であるという意見が主流でしょう。でも、そういう意図的な操作って、他でもよく見かけませんか?
- 所得税が全国民一律でなく、年収の高い人ほどの税率が上がるのは「不当」じゃないの?
- ゴルフのコンペで、初心者に多めのハンデが与えられるのは、「不当」じゃないの?
- 障害者がオリンピックに健常者と一緒に競争せずに、パラリンピックという別枠が特別に用意されていることは、「不当」じゃないの?
一体、どんな操作は「不当」で、どんな操作は「適切」で「平等」なのか??
世の中のこういった事例を眺めてみると、「平等」には幾つかの種類があることに気付きます。以下では、100m走を説明のための例に用い、続けて大学入試などでの具体例を提示、という流れで考察していきます。
スタートライン(初期状態や機会)の平等
一つ目は、スタートラインがきっちり同じ、というタイプの平等です。そもそも競争に参加できるかどうかの機会均等についてもこれに含めます。
100m走であれば、ある人だけは特別に10m前からスタートとか、3秒前にスタートとか、そういうことは絶対ダメ。どんな人だろうとスタートの条件は厳密に、きっちり同じ。
大学入試であれば、女子だけ最初から受験申込み人数が制限されているとか、男子だけ16歳から受験可能とか、寄付金を多めに払った人は事前に出題範囲が分かるとか、そういうことがないことに例えられます。
さて、これは一見当然のことのように思えますが、本当にこれを何も考えずに実現すると、大変なことになりそうです。同じ100m走で、女の子でも男の子でも、高校2年生でも小学4年生でも、健常でも先天的に足が悪くても、スタートラインがきっちり同じだったら、なんか逆に不平等な気がしますよね?「スタートラインは、確かに同じ」なのに!
…いやいや、基本的な考え方としては、スタートラインを合わせるというのは悪くない案のはずです。でも、決定的に何か重要なことの考慮が足りていない気がします。この “違和感” についてはひとまず心に留めておき、とりあえず今は次のタイプを見てみましょう。
プロセス(途中経過や条件)の平等
二つ目は、プロセス(途中経過や条件)が同じ、というタイプの平等です。
100m走であれば、ある人のコースだけハードルが置かれていたり、坂道だったり、砂場とか水場の区間があるとかがない。みんな同じ条件のコースを走る、というタイプの平等。
大学入試であれば、特定の人だけ得点を強制的に差し引かれたり(逆に加算されたり)、特定の人だけテストの問題が異なっていたり、解答時間が少なかったりしない。
今回の医学部不正入試における問題は、当然満たされていると思われていたこの「プロセスの平等」が、受験者の預かり知らないところで意図的に歪められていた、という点であると言えるでしょう。
ゴール(最終的な結果)の平等
三つ目は、最終的な結果を均等にする、というタイプの平等。ここでいう「結果」には、与えられる地位や名誉、用意されるポストの数(合格者数もこれ)なども含めます。
- 100m走の第一レースの一位と、第二レースの一位は、同じ金メダルが貰える。
- 小学生部門の一位と、中学生部門の一位は、同じ金メダルが貰える。
- 女子の100m走の一位と、男子の100m走の一位は、同じ金メダルが貰える。
ここまで聞くと良さそうですが、以下ならどうでしょう。
- 内閣の14人の閣僚のうち、絶対に7人が男性、7人が女性ときっちり半々に決められている。
- 上場企業の女性管理職の割合は50%でなければならないと法律で定められている。
- 200人定員の医学部の合格者も、100人男、100人女と決められている。
このような「強制的に結果が揃えられている」世界では、もし女子の101位の得点が、男子でいうと70位くらいの好成績だったとしても、「男女別に100人ずつ合格」とするゴールの平等の下では不合格となります。
さてこれだと、一つ目のスタートラインの平等と同じく、違和感を覚える方が多いのではないでしょうか。「いやいや、男女別にせずに、性別関係なく上から順に200人合格にしろよ。結果的な男女比は関係ないよ、純粋に実力順にするのが平等」と考える人が多いのではないかと思います。
“結果だけを無理やり揃えようとする” と、それぞれの集団間で実力と順位の逆転が起こり得ます。例えば、女子100m走の世界記録はフローレンス・グリフィス=ジョイナーの10秒49ですが、これは男子100m走でいうと1600位のタイムにも及びません。男子は女子の世界記録のタイムで走ったとしても、到底メダルを手に入れることはできないのです。
でもこれは女子が優遇されてて、「ズルい」のでしょうか。大学入試のように、「いやいや、男女別にせずに、性別関係なく上から順にメダルを与えろよ。結果的な男女比は関係ないよ、純粋に実力順にするのが平等」なのでしょうか?
いや、この場合は、大学入試のときとは逆に「男女別にして、それぞれに順位をつけるのが平等」と考える人が多いでしょう。
大学入試では、男女別にしない方が平等な気がする。
100m走では、男女別にした方が平等な気がする。
この正反対の結論の違いは、どこから来るのでしょう。
…どうやら、「平等」の本質が少しずつ炙り出されてきたようですね。
「平等」は、意図的な操作により作り出されるもの
「平等」は、最初から在るものではありません。最初に在るのは「差」です。
実際のところ「人それぞれ本来は差が在る」ということを前提に、できる限り、不平等感の少ない、皆が納得しやすい操作を意図的に加えること、それが「平等」を形づくるということになります。
従って、上述した3つの平等は、実は平等そのものではなく、平等を作るための操作・方法であると言えるでしょう。これらは、真に平等な状況を実現するために、適宜組み合わせたり、都度適当なものを選択すれば良いのです。
皆の不平等感を最小化する = 平等
ある操作を 、その操作を行ったときの対象者 人目の感じる不平等感を とすると、最も平等な操作 を求める問題は、各人の不平等感の総和が最小となるような最適化問題を解くということで表現できます。
取りうる操作 のうち、 人の不平等感の総和が最小となるような平等な操作 を求めよ。
ですが、現実的にこれを解くのはなかなか大変です。なぜなら、操作 は無数に考えられるし、それぞれの対象者が感じる不平等感を算出する関数 も人それぞれの価値観によって異なるからです。(→「価値観、多様性、そして平和」の話。)
実際にこれを解こうとすると、例えば「2019年10月の消費税率10%への引き上げにあたり、プレミアム付き商品券を年収256万円未満の所得層と0〜2歳児を持つ子育て世帯だけに配ろうと思います(※)が、この場合にあなたが感じる不平等感は “完全に不平等” を10として10段階中いくつですか」というアンケート調査を行って集計し、他の施策と比較を行ったうえで合計が最小となる施策を選ぶ、ということになります。(※2018年11月26日政府発表。きっと、年収260万円の所得層や3歳児を持つご家庭は、不平等感が高くなるでしょうね…)
国なら出来なくはないし、実際 Twitter や LINE のアンケート機能でも使えば人口カバー率そこそこいくと思うのですが、まぁあまり期待はできないので、ゴリ押しでこの問題を解く術は無さそうです。
でも、この式を直接的に解くことは現実的に難しくても、不平等感の少ない、皆が納得しやすい、何らかの普遍的な平等の設計方針があるように私には思われます。最後に2つ、その方針になり得るのではというものを提示したいと思います。
普遍的な「平等」の設計方針
1.「やむを得ない事情」を考慮する
生まれた時点で生物学的に男だった、生まれつき足が悪かった、生まれつきでなくても後から難病にかかった、交通事故に遭って片手を失った、生まれた家がたまたま金持ちだった、養子で引き取られた先が貧乏だった、そういった本人の努力や、逆に怠慢によるものとは無関係の、「やむを得ない事情」による差違については、適宜調整を入れる、という考え方。これは「平等感」が高い。
例に用いた100m走や、重量挙げで男女混合で単純にランキングしたら、そりゃあ1位から10位まで男性が独占してしまうでしょう。でも、それは生物学的にたまたま男性の方が力が強いので、あんまりというもの。ならば、男子と女子で競技を分けて、それぞれのなかで競争しましょうという考え方。オリンピックとパラリンピックがそもそも分かれているのも、この考え方に基づくものだと思います。
「セグメント分け」がこの平等を “設計” する際のキモです。やむを得ない事情により、明らかに力量に差がある集団ごとに競争単位を区切って、セグメント分けをする。そしてそのセグメント内で同位であれば同等の社会的名誉や価値があると見做す。
「その差異が “やむを得ない事情” によるものであること」「それぞれの集団間で明らかな能力差があること」この2つを満たすことがセグメント分けによる平等設計の必須条件です。
(ちなみに、セグメント分けが不要と判断した場合は、全部一緒くたに競争ということになるので、純粋に実力勝負ということで良いでしょう)
MEMO:
ここでは「オリンピックとパラリンピック」「男子100m走と女子100m走」のように完全に区分けしてしまうのを「セグメント分け」と表現しています。それとは別の手法として、完全な区分けはせずに、同じ区分の中で、「男性と女性の人数を同数とする」などのように特定の属性を基準に一定の人数や比率を割り当てる手法を「クォータ制」といいます。
個人的な主観としては、クォータ制は実用が難しいと感じます。何故なら、適正な(皆が平等と感じられる)比率の算出が難しいからです。これは次項で触れたいと思います。
医学部不正入試の問題では、男性/女性であることは “やむを得ない” 差異であり一点目は満たしていますが、受験勉強において男女間でテストの点数を取る能力に顕著に差があるとは思われませんので、二点目の “明らかな能力差” を満たしていません。女子の点数を下げて男子を優遇する医学部は、受験勉強において男子が明らかに女子より能力が劣ることを証明しなければならないし、それがそもそも医師としての適性とどれだけ関連するのかも吟味すべきでしょう。「医者は体力仕事だから、体力のある男性医師を増やしたい」なんて言い訳を使うのであれば、入試科目に体力テストを入れればいい。でなければ平等感は得られない。
ここでの注意点としては、逆に「”やむを得なくない” 事情」、つまり努力不足や怠慢、本人の責に帰すべき要素は、セグメント分けの基準に使用してはならないということが挙げられます。勉強100時間以上した集団と、勉強100時間未満の集団を分けて、それぞれの中から同じ人数の合格者を出すのは、おかしい。皆100時間くらいはやろうと思えば出来たはずですから、後者の集団は単なる怠慢です。
スタートラインの平等やゴールの平等で感じた違和感の正体は、この観点の欠落であったと言えます。「その差異が “やむを得ない事情” によるものなのに、適切に考慮がされていない」または逆に、「その差異が “やむを得ない事情” によるものではないのに、なぜか変に考慮されている」と、かえって不平等に感じられるようですね。
2.「やりたいとおりにやれている人」が多くなるようにする
二点目は「やりたいとおりにやれている人が多くなるようにする」です。どういうこと?と思う方も多いでしょうから、実際の具体例で説明します。
政府は男女共同参画基本計画において2020年までに指導的地位に女性が占める割合を30%とする「2020年30%の目標」を掲げています。女性の管理職率が低いというのが問題と言っていますが、さて、これが本当に問題なのか、不平等なのかどうかは、実際に女性の管理職になりたい人の割合と実際になれた人の割合を調査して、それが男性の場合の結果とどのくらい差があるかを比較してみなければ分かりません。そもそも、目標値は「50%」でなくて、よいのでしょうか。
実際に2017年12月に行われた日経新聞による女性2000人調査では、管理職になりたい女性の割合は2割であったようです。
調査によると、現在の仕事にやりがいを感じている女性は4割。年代別では30代が42.2%と最も高く、40代が36.0%で最も低い。
管理職志向を聞いたところ、「なりたいと思う」は2割。思わない人は6割に達した。仕事にやりがいを感じている層でも、管理職になりたいと思う人は24.8%にとどまった。
管理職になりたい女性は2割なのに、政府は3割を目標に掲げている。こういったミスマッチは、かえって不平等感を高めます。(ただ、”なりたい” が2割で “なりたくない” が6割、”分からない” が残り2割なので、乱暴ですが “分からない” 層の半分を算段に入れてしまえば、3割目標というのはそれほど外していない数字なのかもしれません)そして、“なりたくない” が6割ですから、管理職の男女比を強制的に半々にすると、むしろ「管理職になりたくないのに無理やり同数にするために管理職にさせられた」という女性が出てくることになります。
管理職になりたい人が2割のとき、実際になれるのも2割であれば、「やりたいとおりにやれている人」が最も多い状態と言えます。これが強制的に目標値が5割なんかに設定されてしまうと、管理職になりたくない人までやらされることになり、むしろ迷惑であるということになります。
ゴールの平等を設計する際には、この「やりたいとおりにやれている人」が最も多い状態を目標値に設定するのが妥当でしょう。この原則を無視して、何でもかんでも結果を半々とか均等にするような操作は、余計なお世話である可能性があります。
MEMO:
例に挙げた日経新聞の調査結果での管理職になりたい女性の割合は2割となっていますが、説明のための題材としては使ったものの私はこれは正しい調査結果になっておらず、真の値より低く出ていると思っています。
日本の今の社会環境を考えると、「“出産や育休、時短勤務などが、評価やキャリア、実務面でも全く一切影響が無いとしたら”、管理職になりたいと思いますか?」と聞かなければ、女性の本音を聞き出すことはできないと思われます。この注釈が無いと、色々と現実的な制約を忖度して、(現実的に無理だから)”思わない” を選んでしまう女性が一定数居るのではないでしょうか。
このような聞き方をしなければならないこと自体、非常に心苦しく、残念なことであり、スタートライン(初期状態や機会)の不平等に起因する問題だと思われますが、この社会環境の男女不平等改善についてはここでは考察しません。また別の機会に考察したいと思います。
「価値観、多様性、そして平和」の話。では、平和を形づくる一つの要素として「多様性を認めること」を挙げましたが、「平等」も、平和を形づくる一要素であることを疑う余地はないでしょう。
下手糞な平等設計によって不平等感が蔓延する世の中ではなく、皆が納得できる、平等な世の中になっていくといいですね。
今回のまとめ
- 「平等」は最初から在るものではない。最初に在るのは「差」である。「平等」は、その差異を適切に調整する操作により形づくられる。
- 皆の不平等感を最小化するような操作が、最も平等な操作である。平等を設計する際には、不平等感の少ない、皆が納得しやすい設計方針を採ることが望ましい。
- 普遍的な「平等」の設計方針として、「やむを得ない事情」を考慮する、「やりたいとおりにやれている人」が多くなるようにする、というのは如何だろう。けっこう本質を捉えていると思うのだけど。
ではでは今回はこの辺で。
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