「努力は必ず報われる」とか「努力すれば必ず夢は叶う」という言葉があります。
ドラマや漫画、スポーツ選手の子どもたちへのメッセージなんかでよく耳にする言葉です。しかしはっきり言ってしまえば、これは残念ながら嘘だし、間違っています。夢が必ず叶うのは、フィクションの中だけです。
- サッカー選手になりたい子供が全員プロサッカー選手になれるだろうか?
- 金メダルを取りたいスポーツ選手が全員金メダルを取れるか?
- お金持ちになりたい人が全員お金持ちになれるか?
この言葉が間違っていることは、わざわざ小難しく証明する必要もなく、ほぼ自明です。どれだけ頑張ったとしても、夢は叶うとは限らない。というかもう、叶わない可能性のほうが高いと断言してもいいでしょう。
では、夢はどうせ叶わないので最初から諦めるしかないのでしょうか?
いえ、そんなに悲観しなくてもいいし、この言葉は全面的に間違っているということでもありません。この言葉は末尾を少し変えるだけで、正しくすることが出来ます。
「努力すれば、必ず夢に“近づける”」とすればよいのです。
「努力」と「パフォーマンス」の関係
努力とパフォーマンスの関係について考えてみましょう。
それらの関係を説明する有名な法則として、「1万時間の法則」というものがあります。心理学者のアンダース・エリクソン教授の研究をもとに、アメリカの著述家マルコム・グラッドウェル氏が提唱して広まったこの法則は、簡単に言えば「どんな人でも、1万時間練習を続ければ必ず一流になれるよ!」というものです。
まさに「努力すれば必ず夢は叶う」派の人が飛びつきそうな法則ですが、先に言っておくと、この法則はあんまり正しくありません。
もとになったエリクソン教授の研究における調査は以下のとおり。
世界トップレベルの音楽学校に通うバイオリニストの生徒を集め、ソリストになりそうなグループと、プロオケでやっていけそうなグループ、そしてプロオケは無理でも音楽の先生になりそうな3グループに分けて練習量を比較した。
すると、ソリストになりそうなグループは計1万時間ほどで、他のグループよりも飛躍的に高かった。また、「練習をせずに天才的才能を発揮する人」も、「いくら練習をしても上達しない人」の両者もいなかった。
この調査結果から、練習とパフォーマンスとの間には相関があると考察するのは妥当でしょう。しかしながら、ここから「1万時間練習すれば誰でもエキスパートになれる」という結論を出すのは明らかに間違いです。この結論は以下のような間違いが含まれているからです。
「1万時間の法則」の間違い
一つ目の間違いは、この調査結果は「1万時間練習をすれば必ずトップグループのバイオリニストになれるなんて全く示していない」ということです。「トップグループのバイオリニストが全員1万時間の練習をしていた」のが正しかったとしても、それは即ち「1万時間の練習をすればトップグループのバイオリニストになれる」ということを意味しない。
命題「AならばB」が正しかったとしても、その逆命題「BならばA」は正しいとは限らない。これは論理思考の超基本ですが、あらゆる所でこの間違いは見かけられます。1万時間練習してもトップグループに入れないバイオリニスト、華々しい成果を上げられなかった人、夢が叶わなかった人は山ほどいます。天才と呼ばれる人や夢を叶えた人の周りには、努力の甲斐なく夢破れた人の屍がドーナツ状に累々と積み上がっているのです。
Figure.1 努力したけど夢破れた人
二つ目の間違いは、「“1万時間” という時間の長さは単にキリがよいから選ばれただけで特に意味はなく、エキスパートになるために必要な練習時間の長さはジャンルや種目によって変わる」ということ。
元研究のエリクソン教授は国際的なコンクールで優勝するには30歳くらいまでに2万~2万5千時間の練習が必要であろうと言っているし、9千時間だったら絶対ダメというわけでもない。エキスパートになるために必要な練習時間の長さはジャンルや種目によって大きく変わることも言及しています。
「1万時間の法則」は、グラッドウェル氏が調査結果を捻じ曲げ、誤った解釈で広めてしまったものであり、エリクソン教授も自らの研究結果が ”やみくもに一万時間かけて無我夢中で練習すれば誰でもエキスパートになれる” かのように伝わったのは誤解であると苦言を呈しています。「1万時間練習すれば誰でも一流になれる」なんて魔法の法則は存在しないのです。
「1万時間の法則」の調査結果から得られる、最も重要なこと
話を本筋に戻しましょう。
“1万時間” という数字にはなんの意味もなく、また、単に努力とパフォーマンスが相関するというだけでは、「そりゃまぁ、そうだよね」程度の情報で何の示唆も得られない。では、この研究からは、何も有益な気付きは得られないのでしょうか?
いえ、本質は別のところにあります。この調査結果において最も大事なのは、以下の部分です。
「練習をせずに天才的才能を発揮する人」も、「いくら練習をしても上達しない人」の両者もいなかった。
この2点からは、なかなか興味深い気付きが得られます。これらを努力とパフォーマンスの関係に言い換えれば以下のようになります。
①全く努力をしないにもかかわらず、著しいパフォーマンスを出した人は居なかった。
②努力をしたにもかかわらず、全くパフォーマンスが向上しなかった人も居なかった。
努力なしのトップパフォーマーは存在しない
①は「努力なしのトップパフォーマーは存在しない」ということを意味します。才能だけの天才など居ない、と言い換えてもよいでしょう。努力はトップグループに入る必要条件だということです。(ただし、十分条件ではない。)
努力は、才能のあるなしに関わらず、とにかく必要なのです。才能というものが存在するとすれば、それは「最大限の努力をしたうえで、到達できるパフォーマンスの限界値」だと私は定義したい。才能の差は、膨大な努力を尽くした者同士が限界ギリギリまで能力を高めた末での比較において、やっと見えてくるものなのです。(ちょっと努力したAさんと、もうちょっと努力したBさんで勝負して、努力の少ないAさんの方が上手かったからAさんの方が才能ある、などという低レベルの話ではない。)
努力しなければ天才でも結果は出せない。この結果はそれを示しています。
努力をすれば、必ずパフォーマンスは向上する
②は「努力をすれば、必ずパフォーマンスは向上する」ということを意味します。(もちろん、年齢による衰えなどの自然劣化のマイナス圧力がある場合は、それを上回る努力が必要になります)
誤解が無いように改めて言及しますが、これは「努力をすれば必ずトップグループに入れる」ということではありません。トップグループに入るためには、努力をしたもの同士の競争において相対的に上位に入らねばならないからです。これは「競争する相手の力量」という外部要因が絡むため、確実なものではありません。「日本一のアイドルになる」でも「インターハイで優勝する」でも、他者との比較・競争における勝利は約束されません。
しかし、同一個人内においては、努力前と努力後では確実にパフォーマンスの向上が見込める、ということなのです。これが、冒頭で「努力すれば必ず夢が叶うとは限らないが、必ず夢に近づける」とした理由です。
さて。
2点をまとめて平たく言うと、こうなります。
「努力すれば必ず上達するし、トップクラスの人はみな努力している。」
…なんと当たり前の結論でしょう!しかしこのことを根底から理解することの意義は大きい。
努力もせずに「あいつはいいよなぁ才能あって。」などと言うのは単なる怠け者のひがみでしかなく、上達のためには努力が必須であり、かつ最も確実な手段でもあるということが分かる。
結局のところ、トップになるには努力するしかない。1万時間の法則は、この純然たる事実を示したものと言えるでしょう。
「努力は必ず報われる」を信じることの弊害
この言葉が正しいと信じた場合の危険性についても整理しておきましょう。
努力を続けていれば必ず報われる、悪いことをすれば必ず罰せられる、世界はそのように公正にできているという世界観を、社会心理学では「公正世界仮説」といいます。自らの努力により成果を勝ち取ってきた(と思い込んでいる)人間は、しばしばこの思想に陥りがちです。しかしもちろん、実際の現実世界はそのように公正にはなっていません。
もし命題「努力すれば必ず夢は叶う」が真だとすると、その対偶「夢が叶わなかったならば努力していない」も同値であり自動的に真となります。表裏一体の同じことを言っているということです。前者を信じる分には「きっといつか夢が叶うはず!諦めずに頑張って!」という美談に聞こえることも多いですが、後者は様々な深刻な弊害を生みます。
弊害① 過剰な自己責任論
一つ目は「過剰な自己責任論」です。夢が叶わない、成果が出ない、その原因は「本人の努力が足りていないから」であると見做す思想です。
もちろん、本当に努力が足りていなかったり、努力の方向性が間違っている事例は枚挙に暇がないでしょう。しかしながら、全く本人の責に因らない、やむを得ない事例も同じくらいに枚挙に暇がない。
実感のこもった具体的なエピソードは上記のエントリが参考になります。「頑張れば頑張っただけ成果が出た」「頑張ること以外の余計な環境要因を気にする必要がなかった」、それは元々の環境が恵まれていたからです。そのことに気付けないと、公正世界仮説に囚われ、どうにもならない環境要因にすら、無意識に努力不足のレッテルを貼ってしまうことになります。
過剰な自己責任論は、他者に向かえば弱者非難となり、自己に向かえば度が過ぎた自責思考となります。どのような環境であっても、運が悪くても、自責の観点で内省し自己の改善点を探ることは確かに成長に繋がります。が、それは全く自責のないことまで自責しろということでは決してありません。それは無意味かつ時間の無駄であり、やみくもに自己肯定感を下げるだけです。
自分の失敗でも他人の失敗でも、失敗を考察する際にはそれが「どうしようもない環境要因」なのか「努力で改善の余地のある当人要因」なのかをきちんと考えてみるべきです。両者を取り違えると、無駄にクヨクヨ悩んで時間を浪費したり、非のない人をむやみに追い詰めることになってしまいます。
弊害② 世界への逆恨み
二つ目は「世界への逆恨み」です。努力が必ず報われる、頑張り続けていれば必ず夢が叶う、そう考えている人にとって、実際には努力しても報われるとは限らないこの世界は、さぞかし不誠実で、裏切られたように感じられることでしょう。
「こんなに頑張ってるのになんで成果が出ないんだ!」「世間はなぜ私の良さが分からないんだ!」から始まり、いずれは「成果が出ないのは世の中が悪いんだ!」「私が成功するのを誰かが妬んで邪魔をしてるんだ!」という妄想に流れ着く。
でもね、もともと世界は公正ではない。
お金持ちの家に生まれる人もいれば貧乏な家に生まれる人もいる。容姿端麗な人もいればそうでない人もいる。交通事故に遭う人もいれば宝くじに当たる人もいる。
ハナから「そういうもんだ」と思っているくらいがちょうどいいんです。努力が報われないかもしれない、頑張ってもダメかもしれない。いつまでも終わりが見えない。しかしそれでも、勇気を持って前に踏み出し、地道に汗をかけるか。残念な結果に終わっても、「全力でやり切ったから、悔いはないよ!」と爽やかに笑えるか。公正でないこの世界と対峙するときには、そういう態度が望ましいでしょう。
弊害③ 時間の浪費
三つ目は「時間の浪費」。既に言及したように、努力すれば必ずパフォーマンスは上がりますが、他者との比較・競争における勝利や相対的な成功は約束されていません。しかし、努力が必ず報われるはずだと考えていると、「いつかきっと、この頑張りが実を結ぶ日が来るはず…!」といつまでたっても諦めきれず、人生の貴重な時間を浪費することになります。
誰もが認めたくはないでしょうが、ある程度の努力をしたにもかかわらずさっぱり競争に勝てないのであれば、それは残念ながら “向いていない” 可能性が高い。もちろん大器晩成型の可能性もありますが、一旦そこで立ち止まり、「見込みがありそうか、努力や工夫で何とかなりそうなレベルなのか」を考えてみることに損はありません。すでに投入してしまった膨大な時間と労力を惜しむ気持ちはどうしても出てきてしまうものですが、見込み薄だと分かっているのにさらに頑張り続けることは、損失を拡大させる悪手です。
人生は有限です。ある程度努力を尽くした時点で、自分の限界を推測し、さらに継続して本気で取り組むのか、諦めて趣味として続けるのかを判断するのは、悪いことではないと思います。一度きりの人生、悔いの無いよう有意義に使うのがよいのではないでしょうか。
今回のまとめ
- 「努力は必ず報われる」は間違いで、報われるとは限らない。「努力すれば必ず夢に “近づける”」なら、正しい。
- 努力すれば必ず上達するし、トップクラスの人は皆努力している。ただし、努力しても必ず他者との競争において勝てるとは限らない。しかしそんなことは承知のうえで、努力を続ける気概が大事。
- それなりに努力をしても一向に成果が上がらないのであれば、いったん立ち止まり、見込み薄ならある程度で見切りをつけるのも悪いことではない。一度きりの人生、貴重な時間を、悔いのないよう有意義に使うべきだ。
ではでは今回はこの辺で。
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