価値観は人それぞれ、ってよく言いますよね。
でも「価値観」って、どんなものかきちんと説明して!と言われたら、ちょっと答えに窮するのではないでしょうか?
今回は「価値観」について考察します。
価値観は主観的なもの
価値観とは「その人がどのようなことに価値を感じるか」ということです。
ここで重要なのは「その人が」というところ。つまり、主観的なものだということです。
例を挙げて考察してみます。
「最強のスマホはどれだ?」 という問いがあったとします。
おいおい、性能がいいとか画面が大きいとか、はたまた電池の持ちがいいとかならまだしも、最強って何だよ、と思いますよね。でも、いいんです。どのような基準をもって「最強」とするかはあなた自身で決めてよいんです。
はい、それを決めるのが価値観です。
ではこのスマホの比較を例として、定量的に見ていきましょう。
偏りのない平均的な価値観
Figure.1 偏りのない価値観での評価点
ある新製品スマホA、スマホBについて、あるガジェット誌での評価は上記のとおりです。
合計点は スマホA:40 点 に対して スマホB:44 点 で、誌面での「最強のスマホ」はスマホBという結果になっています。
それぞれのスマホの項目別の評価点をフラットに足し算し、合計点を算出しています。これが一般的な評価であり、偏りのない平均的な価値観にあたると考えることができます。
画面サイズを重視した価値観での評価
Figure.2 画面サイズを重視した価値観での評価点
さて、そのレビューの評価を見て、画面サイズ重視な読者はこう考えます。
この読者はよく動画や写真をスマホで見るため、画面は大きければ大きいほど良いと考えています。逆に、その他の項目にはあまりこだわりはありません。そのため、画面サイズだけは他の項目と比べて特に重要だとして、心のなかで点数を3倍にして計上します。
すると、合計点は スマホA:60 点 に対して スマホB:58 点 で、この読者にとって「最強のスマホ」はスマホAという結果になりました。先ほどの評価とは異なる結果になっていますね。
このように、個々人の評価は一般的な評価とは異なり、その人が特に価値を感じている項目は他よりも大きく重み付けがされていると考えられます。これが、価値観の違いであると理解することができます。
色々な考え方があるからこそ、人間は面白い
スマホの画面が大きければ大きいほどよい、という人も居るでしょうし、手が小さいので画面の大きさは程々で片手操作できる方がよい、という人も居るでしょう。
肉と赤ワインが最高に旨い、という人も居れば、いやいや刺身と日本酒が最高、という人も居るでしょう。
敬虔な宗教の信者が居るならば、無神論者も居たって良い。
価値観は人それぞれに違ってよく、多様であるからこそ人間は面白い、と考えます。
価値観こそが、その人の個性であり、人となりを決めるものと言っても過言ではないでしょう。
価値観の衝突とその解決策
さて、価値観は人によって違うために、同じ問いに対して各人の答えがしばしば相反する内容となる場合があります。例を挙げましょう。
Aさん:「牛肉の食べ方は、絶対にステーキが一番美味しい。」
Bさん:「牛肉の食べ方は、絶対にしゃぶしゃぶが一番美味しい。」
この場合、それぞれの主張の内容は排反事象であるため、もし唯一の正解が存在するのであれば、どちらかが正しく、どちらかが間違いということになります。
はいはんじしょう【排反事象】
一方が起これば他方は起こらないという関係にある二つの事柄や現象。
出典)三省堂 大辞林 第三版
参照)排反事象(ハイハンジショウ)とは – コトバンク
しかしながら、”美味しい” などはあくまで「その人が」美味しく感じるかどうかであり、主観的なものです。味の好みは「絶対」というものが存在しない身近な例ですね。つまり、この問いに唯一の正解は存在しません。では、AさんとBさんは、どのように折り合いをつけたら良いのでしょうか?
Aさんの主張する①という意見と、Bさんの主張する②という意見が相反していた場合に、どちらかを絶対的に正しい、としてしまうと、争いが起こると考えられます。”間違い” とされた側が不服に思うに決まっているからです。争いを起こさないためには、Aさんにとっては、①は正しい。Bさんにとっては、②は正しい。①と②の内容は相反しているが、それで構わない、人によって違って問題ない、多様な考え方があっていい、というスタンスを取ればよいのです。それだけが、①=真、②=真、①と②は排反、を全て満たす唯一の解であると考えられます。
このような価値観の衝突は、食べ物の好みだけではなく、宗教、性的指向、政治思想に至るまで、あらゆる分野で発生します。全ての意見は相対的であり、絶対というものは存在しません。特定の意見について “絶対” と言い切れるとしたら、それは「私にとっては」を付けたときだけです。
絶対座標で位置を表すためにはまず原点を設定しなければならないように、自分の意見は原点を自分自身に固定している前提でしか絶対と言うことはできません。自分からの見え方が他人から見ても同じとは全く限らないのです。古くはプロタゴラスの哲学からアインシュタインの相対性理論まで、「相対性」という概念は、物理法則のみならず我々の思想・価値観の本質を捉えているように思えます。
Figure.3 価値観座標系の相対性
私は特定の信条や主義などを持っていませんが、強いて一つ挙げるなら、多様性主義、とでも言いましょうか、「誰がどんな考え方を持っていても良い」ということですね。これ自体も一つの価値観ではありますが、この前提を認めないと、価値観の衝突が発生した場合に平和的な解決手段を持たないことになります。唯一絶対の価値観を強要し、他者の価値観を認めない独裁者や組織が、やがて大きくなる反対の声への対抗手段として、弾圧や殺戮、差別、テロなどの、力づくで相手を抑えつける方法を採ることは歴史が証明しています。様々な価値観が共存する現代においては、多様性を認めることが、平和を形づくる一つの要素として必要なのではないかと考えます。
最近ビジネスシーンでも「ダイバーシティ」という言葉をよく見かけるようになりましたが、よく挙げられる性別や国籍、人種だけでなく、価値観、趣味嗜好、ライフスタイルまで、真に多様性が受け入れられる社会になっていくといいですね。
今回のまとめ
- 価値観は「その人が何に価値を感じるか」という主観的なもの。
- 価値観は人によって違って当然。むしろその多様性が人間の面白さである。
- 価値観の衝突が発生した場合に平和的に解決するには、多様性を認めることが必要である。一つの価値観を強要するような世の中ではなく、多様性を受け入れる世の中が望ましい。
ではでは今回はこの辺で。
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