少し前のクールのドラマで「重版出来!」というドラマがやっていましたね。その中で、出版社の社長が「運の総量は皆同じ、運を貯めて、ここぞというときに使うんだ」という主旨の回がありました。話自体は面白く、私自身とても楽しめたのですが、実際の私の「運」についての考え方はこれとは違います。
今回は「運」について考察します。
「運」は平等ではない
運は、宇宙全体とか、この世全て、のようなレベルで考えれば、総量は一定と見做しても問題はないと思いますが、個人単位で見た場合には持っている量には差があると考えます。具体的な例を挙げて、定量的に考えてみましょう。
「Aさん、Bさん、Cさんの三人がサイコロを10回ずつ振って、1の目が出た回数の多い人が勝ち」というゲームをします。使うサイコロは同じで、サイコロを振る回数、勝つための条件設定も同じですが、さて結果はどうなるでしょうか。
大数の法則により、サイコロを充分に多くの回数振れば、1の目の出る回数は振った回数の6分の1の回数に限りなく収束していくはずです。仮にサイコロを6兆回ずつ振るのであれば、三人とも1の目は大体1兆回くらい出て、大差は付かないことが予想されます。しかし、現実的な小さい有限の回数である場合は、偏り、つまり、Aさんは10回中4回も1の目が出たが、Bさんは10回中1回しか1の目が出なかった、Cさんはなんと1回も出なかった!ということが発生します。施行の結果が計算上の期待値といつもピタリと一致することはありません。
人間の寿命は有限であるため、無限回の施行を行うことはできず、現実は有限回の施行でたまたま出た結果の影響を大きく受けることになります。10回のサイコロ振りだけでなく、人生の様々な場面での運試しを「一生トータル」で集計しても、おおむね幸運続きであった人、どちらかというと不運だった人などの「偏り」が生じてきます。この有限回の施行の結果の良し悪しを、一生分で集計した総量の差が、結果的に人それぞれの持っている運の差となると考えられます。
「運」の性質
他にも運の持つ性質を見ていきましょう。
先程のゲームで、「最初の3ゲームは、1の目を一回も出さないようにして、運を貯めておく。次の4ゲーム目で貯めておいた運を一気に使って、1の目を8回出す。」ということを意図的に実行することは、可能でしょうか?
そう、お察しの通り。無理ですよね。
では次の例はどうでしょうか。
「最初のゲームは、普通にやって1の目を1回か2回出す。次のゲームでは、強運のペンダントを装着して、1の目を3回出す。更に次のゲームでは、ゲーム前に精神統一と滝行を行うことで運気を向上させ、1の目を5回出す。」という企みは、成功しそうでしょうか?
はい、多分失敗に終わるでしょうね。
運は、貯めておいて後でまとめて使うことは出来ないと考えられます。また、どこか他所から持ってきたり、誰かに貰ったり、自己努力で向上することも、出来ないと考えられます。”運否天賦”という言葉もあるように、全くもって人が干渉することは出来ないものだと思われます。
では、そのような性質を持つ「運」というものには、どのように対峙すればよいのでしょうか?
「運」との対峙方法
その答えは、「運ばかりはどうにもならないので、気にせず無視する」です。
え?身も蓋もなさすぎるって?そうですね、では言い換えましょう。
「多少の運に左右されない実力を付ける」です。
上述したように、相対的に、結果的に、たまたま「運が悪い人」は、確かに存在します。しかしながら、たまたまあなたに不運が続いていたとしても、悲観しすぎることはありません。何故なら、サイコロを1000回振って一度も1の目が出ない人は居ませんし、実社会の競争では「純粋な運のみの勝負」は少なく、「実力での勝負」が大半であるからです。少しくらいの不運に見舞われたところで、失敗を全て運のせいにしているようでは、安定的な成功は望めません。逆に、ろくな実力もないくせにビギナーズラックで成功したにもかかわらず、その成功を実力と勘違いすると、近いうち必ずツケを払うことになるでしょう。
「制御不能な運のツキに大事な結果を左右されないよう、揺るぎない実力を付けておくこと」が、運に対峙する際の最善の戦略となります。
今回のまとめ
- 運は平等ではない。運が良い人もいれば悪い人もいる。
- 運は制御できない。貯めておいて後でまとめて使うことも、他人から貰ったり、自分で鍛えることもできない。
- 運が良かった人は、素直に運が良かったことを喜び、しかし気を抜かないようにしよう。運が悪かった人は、運に左右されない実力を付けよう。
ではでは今回はこの辺で。
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